ごあいさつ

半日書類書き。

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

(見えない)欲望へ向けて―クィア批評との対話

はまぞうに画像があがったので、宣伝する。この何年か、「本は意に満たなくとも出せるときには出さないといけません」と他人様に向けて言い続け、ようやく自分で落とし前をつけたことになる。学部生はたいがい雑誌論文など読まないから、本のかたちで出すことには教育的・したがって資本主義的な意味がある、という意味です、まずは。
研究者として生きていくということは、どういうことなのか、あらためて考えるいい機会なのだろう。このブログを見ている方にはいまさらわかりきった話かもしれないが、わたしには専門といえる領域がない。クィア批評に関してはいちおう専門家なみの知識があると思うが、とりあえずヘテロセクシュアルな生活をしている人間がクィア批評の専門家であるというのは、英語圏ではありえない話だ(そしてわたしの仕事は「英文学」の枠内で成立している)。十九世紀イギリス小説とか医学史に関しては、とても自分でプロといえる自信がないし、それ以上に、プロになることを優先させて邁進しようという気分になれない。すこし話が違うかもしれないが、そもそもわたしは、なにか自分の明確な立場から世の中に向けて語りかけたいことがない。たんに「読んだから書いて」いるのであって、それ以上なにもない。「英文学」という得体のしれないディシプリンは、そんなありかたを許してくれるからこそ、わたしにとってはかけがえのないものだし、それを守りたいと思っているのかもしれない。
本のあとがきでも書いたが、わたしを突き動かしているおそらくただ一つの欲求は、目の前にいる人が、あるいは目の前にある本を書いた人が、なぜいまそうあるかを知りたい、ということだ。あるいはこれに、そのためには、こちらがなにか問いかけたときに、真面目にそれに応対してくれるような環境を作りたい、ということを加えてもいいかもしれない。この欲求の解は、たんに「偉くなる」ということである可能性があり、だとするとかなりうんざりする話だが……。くりかえすが、わたしには自分で言いたいことはなにもない。しかし、そうした人間だから書けるものもあるのじゃないか、と思うことにしている。