Theoretical Answers or Inderdisciplinary Answers?

Victorian Studies 47-2 (2005 Winter)。去年の10月にトロントであった第二回 NAVSA (北米ヴィクトリア朝研究学会)からのピックアップ。この学会の会費はこの雑誌の購読料とリンクしているし、この後もこうした企画は続くのかもしれない。ハリエット・リトヴォー、ケイト・フリント、ジェームズ・ヴァーノンが、それぞれ三本の発表を選んでコメントする、という形式が面白い。
いちばん心安らかに読んでいられるのは、科学史中心のリトヴォーのセクション。Amy M. King はゴスについて。James Elwick は、多足類研究や神経生理学で話題になっていた「頭を切っても生きている」事態が、どう政治的な比喩で表現されていたか、という、いかにもinterdisciplinary に出てきそうなテーマ。結論としては、神経系が全般に「平等」であるという議論はこの時代なるべく回避され、どこかに中心を見いだそうという傾向が強い、ということらしい。いちばん面白いのは Michelle Elleray、宣教師としてトンガに行きながら、トンガに染まって現地妻をもらい、刺青をしていわゆる beachcomber になっていった George Vason という男の自伝(1840)を紹介している。現地人とのつきあいには、教会のほうでもこうしたやさぐれ者が当然必要だったわけだ。
フリントのセクションでは、Amanda Anderson の論文が収録された上でびしばしに批判されていて、ちょっと気の毒な感すらある。Anderson は、Robert Pippin,Modernism as a Philosophical Problem: On the Dissatisfactions of European High Culture を引いて、産業と啓蒙のブルジョワ modernity と、より美的な存在論、この時期のイギリスでいえばワイルドに代表されるような modernity とを対比させて、ヴィクトリア朝という概念と同じくらい近代という概念も亀裂を孕んでいる、という議論を立てているのだが、ちょっと単純すぎやしないか、美学とテクノロジーの絡み合いとかそれじゃ見えてこないんじゃないの、ということらしい。
しかしこの号はなにより、Historians and the Victorian Studies Question と題されたヴァーノンのセクション、とくにキャサリンギャラガーのエッセイ "Theoretical Answers to Interdisciplinary Questions or Interdisciplinary Answers to Theoretical Questions?" (253-259)で記憶されるはずだ。この文、彼女が十五年前にヴィーザー編『ニュー・ヒストリシズム―文化とテクストの新歴史性を求めて』で書いた、マルクス主義と新歴史主義についての論文と同じくらいバカ正直なもの。こうした自己批判・制度批判を嫌みに堕ちず書いてしまうのが、この人ならではというか。ここで問題になっているのは要するに、ヴィクトリアン・スタディーズという「学際領域」が、実際は文学研究内輪の「学際」でしかないということだ。ヴァーノンも指摘するとおり、この雑誌の書評欄にはつねにプロパーな歴史書が溢れているが、歴史出身の書き手の論文が載ることはまずない。NAVSA が一昨年に創設されたときも、「結局文学研究者ばかり、他のディシプリンは端に追いやられるだけだ」みたいな不満の声が、わたしのところにまで届いてきた。似た事態は、日本ヴィクトリア朝文化研究学会にだってあるわけで、他人事ではない。
ギャラガーはまず、フーコーの圧倒的な影響が、それ以前は学際的議論の大枠となっていた「産業革命の功罪」論、Condition of England 論といってもいいが、の枠を崩してしまったと指摘する。ここではそうは書かれていないが、マルクス主義歴史観という、文学批評家も歴史家も入っていける共通の足場が失われたのだ、と。フーコーの影響をうけた人々は「歴史主義者」になったわけだが、彼らがもっとも声を高くして自分の主張を投げかけたのは、歴史家に向けてではなく、同じ文学研究業界内の「非歴史主義的理論家」に対してだった。「あらゆるものは歴史的に構築されており、現在揺るぎなくみえる諸概念もまたそうである」という思想、系譜学的発想ということになるが、は、「文学の永遠」派とかテクスト論者に向けられた「理論的言明」だったのだ。この「理論」の証明として、多くの新歴史主義者は、文学研究者がもっとも安易に信じこんでいる概念の系譜学的追求に向かった。たとえば「作者」という概念がいかにある特定の時期に創り出されたものであるかを検証する研究は、あたりに溢れている。ギャラガー自身のNobody's Story (The New Historicism: Studies in Cultural Poetics)もそうだ。しかし
...in the battle between anti-historical theoreticians and New Historicizers in literature departments, we New Historicizers won, but only by letting ourseves be captured by the intradepartmental theoretical debate....[A]lthough the history of Authorship is an interdisciplinary enterprise in the sense that we must read widely in the history of other things in order to do it, it is only really interesting to literary critics. (257-58)
そして結論はこうなっている。
I look forward to seeing further historicization of literary terminology but contend that it would be more enlightening if freed from the theory anxiety that stimulated it. And freedom from theory anxiety -- by which I do not mean freedom from theory -- will certainly be necessary for the revival of Victorian studies as an interdepartmental concern. (259)
わたしは「理論派」であり、ある程度は新歴史主義者でもある――真面目にやっててそうなってない同世代の英文学者はほとんどいない――が、歴史学との対話が言うほど簡単ではないことはこの十年しみじみ経験してきたので、この文章はあまりに痛い。また問題は、学際性だけではない。(英)文学研究は、新たな理論軸の流行によってその都度盛り上がるということを繰り返してきた。われわれが院生だったころは、新歴史主義者になることによって、年配の先生を殴るのに都合がよかったのだ。しかし、フーコーなりサイードなりセジウィックなりが「消費」されたあとに、「理論的新しさ」だけではやっていけない。それではなにができるのか、という問いに、北米の研究者たちも直面しているということだ。