虹の彼方に

CNNでトニー・ブレアの記者会見を見る。自分でさくさく仕切って能弁に答える姿は変わらないが、みるからに老けた。過激なムスリム司祭の国外追放案に関して、なんども「ここに来たからにはここに従ってもらわないと、それだけだ」とくりかえし、「どこが追放と寛容の境界なんだ」という質問に対しては、「コモンセンスだ、それがイギリスだ」とくりかえす。べつに異様なことを言っているわけではないが、全体の態度が異様に弁明じみている。自分で言いたいわけではないことを、しかしそれを言うしか選択肢がないから、それ以外の方策がないから言っている、という雰囲気が濃厚。「現実主義」の哀れな姿というべきだろうか。共感する部分がないではないが。

虹の彼方に―レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む

虹の彼方に―レズビアン・ゲイ・クィア映画を読む

河口さん、ご恵贈ありがとうございます。1982年以降の58本の映画について、全部で24人の書き手が書いたもの。わたしが思いつくような映画はほぼ拾い上げられている。軸になっているのは、うち14本を書いている編者自身と、12本を書いている河口和也。選んでいる映画の対称ぶりが楽しい。わたしと同世代の河口さんが、ジャーマン、アルモドバル、グレイソン、陳凱歌といったミニシアター系王道について、学問的な格調高さと美的感受性に満ちた文章を寄せ、いっぽう二回り弱年上だと思う出雲さんは、『トーチソング・トリロジー』『ベルベット・ゴールドマイン』『リトル・ダンサー』『Dr.Tと女たち』といった映画について熱く語る。『チャンバラ・クイーン』の著者は、芸能としての映画がほんとうに好きなんだなあ、と思う。『リトル・ダンサー』のラストシーン(王子ではなく白鳥を演ずる主人公)が、主人公のゲイとしての自己発見を見せているという議論は、出雲さん自身も認めるように、そこまで言い切っていいのかどうかわからないが、メインストリーム映画をレズビアンとして肯定的に見る姿勢が、端的に現れていると思う。河口さんは社会学者として理論的に書くときには、わたしなど、もうちょっと自分勝手なことを言ってもいいのではないかと思うくらいに慎重に書く方だが、ここではぐっとエモーショナルな部分が出ている。いや、社会学者にここまで書かれてしまったら、文学にせよ映画にせよ、表象研究者っていったいなんなんだ、などと思ってしまったりするわけです。
他では、短い枚数のなかに形式主義的なイメージ分析をきっちり試みる菅野優香の『オーランド』他の章が走っている。また、新田啓子の『カラーパーブル』論はさすが。映画版は、原作にある逐字的なレズビアン要素がまったくないのだが、そこでやっぱりハリウッドはダメだ、となるのではなく、シャグがブルースシンガーであるということ自体にセクシュアリティ表象を見いだしている。個人的には、『エデンより彼方に』に寄せて、古典的ハリウッド・メロドラマへの愛とそのクィア的擾乱の可能性を語る斉藤綾子の一文が、いちばん泣けた。
チャンバラ・クィーン

チャンバラ・クィーン