留学

http://albion.main.jp/memo/archives/2005_07_30.html で留学の話。いちいち納得する。留学せず、学位もとらずに就職したわたしは、今後ますます化石になっていくだろう。行くべき人は、なるべく早く行ったほうがいい。わたし自身は、二十代末に吉祥寺で専任講師として過ごした時期に、いろんな人に会うことができたし、それがいまの自分を作っている。たぶん三十過ぎていまの職場にきていても、そのときのような人間関係は作れなかっただろうから、ラッキーだったし、その意味では留学しないで就職した自分の人生も悪くはなかった。ただ、そうした場にいられたのはほとんど僥倖のような話。いま十年前に戻ったら、留学のほうを選ぶだろうと思う。

Vision & Accident

Vision & Accident

前半を読む。博物館史は、公的な史料が残っているものだから、こういう基礎的な本がしっかりとしていて頼りになる。初代館長ヘンリー・コールは、アッパーミドルの一番下といった感じの公務員で、ピーコックの家に下宿していたところからあちこち知識人の知人を得て、芸術協会のプロモーターになったのだという。前身であるマルボロ・ハウスでもヴィクトリア&アルバートでも、無料の日と6ペンスの入場料をとる日を使い分け、夜十時まで開館することで、労働者階級の客を確保し、1870年には入場者数100万を達成している。1857年の開館の際の講演は、わかりやすいメッセージを発している。 
In the evening, the working man comes to this Museum from his one or two dimly lighted, cheerless dwelling-rooms, in his fustian jacket, with his shirt collars a lttle trimmed up, accompanied by his threes, and fours, and fives of little fustian jackets a wife, in her best bonnet, and a baby, of course, under her shawl....Perhaps the evening opening of Public Museums may furnish a powerful antidote to the gin palace. (77)
おそらくこうした観客は、美術館に入るだけでなく、ハイドパークを散歩したりしたと思う。あと気になるのは、そこにどの程度レモネードやらバンやらの屋台が出ていたのか、他の娯楽も出ていたのか、つまり総合遊興施設としてのかたちができていたかいなかったかだ。プロパーの博物館史を読んでいても、このへんのことはあまり見えてこない。これは『パンチ』をひっくりかえさないといけないか。