Milton and the Presbyterian Oppositon

頭痛。吐き気を騙しながら授業アンケートと満点マークシート作成。e-learning期末試験作成、やたら時間がかかるのは、この教材がシステム業者から直接買ったもので、先行する紙やCD媒体がなく、完全なデータはサーバーのなかにしかないからだ。デジタルデータは、頼んでもけっして渡してくれないし、そもそもこちらでアレンジした部分もあるから、もとのものとは違っている。つまり、どんな問題出してたっけ、と確かめるためには、一々実際に学内ウェブに入らないといけないし、一問一頁で作ってあるので、複数の問題を一度に見ることはできない。htmlで書かれているから、編集画面からコピペしてもそのままでは使えないし。テクストデータをくれといって業者を必死に説得するのと、画面を確かめつつ全部手で打ち直すのと、どっちが大変かしら。

Go Togashi, ‘Milton and the Presbyterian Opposition, 1649-1650: The Engagement Controversy and The Tenure of Kings and Magistrates, Second Edition (1649)' Milton Quarterly vol. 39. no. 2 (May 2005): 59-81。一流国際誌への掲載、おめでとうございます。ジュパンチッチの翻訳者、ラカンの読み手としての富樫さんはよく存じ上げているが、本丸のミルトン研究でどんなことをされているかしばらくフォローしていなかったので、新鮮。かつては、あらゆる人に王権への反抗を認めていた「人民主義者」ミルトンは、長老派が議会から追放された後の1649年の時点では、inferior Magistrate (たとえば議会)には反抗の権利があるが、private man にはない、という立場をとっている。Dzelzainis などの先行研究者は、これを驚くべき転向だというが、富樫さんは、そもそも反乱の権利・革命の権利という考えに、解消し得ない矛盾――力で王を倒すことが正当なら、次に権力についたものが、力で倒されるのもまた正当である、したがって反対派を弾圧するのは不当である――を見いだし、この議論がすでに内乱期の Francis Rows などの著作で徹底して論じられていることを検証する。思った以上に正攻法。かつ、ここでは一切触れられていないが、ラカンジジェクの「クッションの綴じ目」論を連想したりする。十七世紀研究のことはよくしらないが、たぶんこれ、ミルトンが人民主義者であることは前提として、「誰が人民を代表しているか」という代議論の語彙で論じられることが多かったのだと思う。富樫さんはそうした視点をうまく避けているようだ。