感情構造

「感情構造」をキーワードにしたきわめて正攻法かつ丁寧なレイモンド・ウィリアムズ論三章を中央において、リーヴィス周辺とスチュアート・ホールを前後においた「英文学とCS」論。たぶん、これから長く引用される本になる。ウィリアムズの小説・戯曲がきっちり論じられていて嬉しい。最終章ではスピヴァクグラムシを引きつつ、民衆のことばにならない「感情構造」を知識人が――抽象思考を投げうっても――言語化し、表象・代弁する困難な可能性が熱く語られている。第三章でL・C・ナイツを、文学と社会の関係の再考に向かった書き手として高く評価していて、開眼させられる。
もっともポレミカルなのは、メディア・リテラシー概念を批判した第二章と、ホールのエンコーディング/デコーディング二分法において、デコーディングが偏重されていると指摘する第六章の結尾。第二章では、リテラシーという概念がどうしても機能的・目的論的ではないかという疑念が提出されている。主流メディアを「疑う」視座とか「対抗的な」視座を目標値として設定して、その視座を身につけることがリテラシーである、といった方向は、硬直したものになりがちである、ということか。リテラシーという語はもっと広い意味でとってもかまわないとは思うが、ホガートの細かな読解を通じて安易なPCを批判するスタンスは貴重だ。
第六章の結尾は最初は理解できなかったが、デコーディングが強調されるとき、メディアの送り手=資本=マスカルチャーと、メディアの読み手=民衆=フォーク・カルチャーとが、あまりにすっぱり対比されてしまうことへの批判であるようだ。ほとんどのCSはこの図式でできあがっていて、メディアが押しつけてくるものに対する読み手のある種の自由度に注目するわけだが、それではそもそもメディアに現れるものがどのようにできあがったか(エンコーディング)、この本の文脈でいえば、それがどのようにある時代の民衆の「感情構造」をつかみとっているか、という問題設定ができない。著者ははっきり書いていないが、ホール直系のCSのマルクス主義的前提(資本=悪)に対する批判と読めなくもない。
著者も「学生には知識人論と表象=代弁の問題設定は伝わりにくい」と書いているけど、リテラシーを知識人が占有していて、民衆文化はその外にあるっていう問題設定は、いまの日本ではリアルでない。一つの理由は、主流メディアの外に「民衆文化」を想像しづらいからだ。矢部史郎が「みんなテレビばかり見て勉強してないんじゃねえか」と言ったのに対して、北田暁大が「矢部のほうが勉強ばかりしてテレビ見てないんじゃ」と軽く揶揄したのを思い出す。北田のような作業がまさに現代日本の「民衆の感情構造を自身が民衆である知識人が語る」ものだってことになるのかなあ。山田さん、この図式を受け入れてくれるかなあ。あとがきを見ると、この本のスタンスは、もうちょっと階級論的・地方共同体的なんだけど。