嗤う日本の「ナショナリズム」

概論、階級制度と郊外、『大いなる遺産』『シザーハンズ』。『シザーハンズ』の住宅について「色がそれぞれ違って個性的だ」という反応が多いのは、わたしの話がどっかで混線してるんだろうな。e-learning オフィスアワー。週末の学会で発表する院生二人の予行演習。T君、いいかげんにしなさい、あと5日ですよ。

    嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)
北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005)。直接そのような文体では書かれていないが、かなり「自分史」的。第二章では、「マンガの側からマンガを語る」というスタンスで、旧左翼知識人のマンガ蔑視を批判していた津村喬が、『なんとなく、クリスタル』をまったく評価できず、やがて言説空間から離れていく変遷が語られている。最初、津村のようなナマの身体性への志向が強い人がなぜここで出てくるのだろう、と思った。マスカルチャーに対してインサイダーとして出発しながら、やがて硬直化して、「知識社会学的知」の立場からマスカルチャーを批判する、という道行きは、たぶん社会学者としての北田の反面教師なのだろう。自分がナンシー関に批判されるしかない存在であることを十分心得つつ、それでもナンシー関について書く、というスタンス自体がとてもアイロニカルだ。
内ゲバポストモダンから、80年代の「(抵抗としての)無反省」をへて、2ちゃん=アイロニカルな形式的ロマン主義へ、という図式で気になるのは、2ちゃんのプチ・ナショナリズムがあくまで「サヨマスコミ」というかなり強大な敵というか、ツッコミの対象を前提としていることだ。ポストモダン的複数性(「みんなそれぞれ、おいしい生活」)は保証されず、みんなが同じテレビ(新聞)空間を敵として共有している。田中康夫的80年代だったら、結局どれも最終的にはテレビに回収されるにしても、「まだあまりテレビに出ていないブランド」をあちこちで見つけ出すことが、消費的個性の幻想を支えていたと思う。たとえそのブランドをテレビで知ったのだとしても、自分が全面的に凡庸な大量消費の空間にいるわけではない、というふりね。
いっぽう2ちゃんねらーの多くは、自分たちが朝日新聞的な凡庸さのなかにどっぷり浸かっていることをはっきり口にするし、それに苛々している。いや実際に「サヨマスコミ」は、60年代を引き継ぐ「大きな物語」なのだし、80年代的なものはそれを手つかずに残してきた、というよりそれに依存して展開された。消費の複数性は、政治においてはもとから存在していないのだから、それに対するツッコミがモードになるのはわかる。ただ、このアイロニカルな共有空間は、個別のおたくの空間ほど自閉した、自分たちで勝手に作られたものではない。アイロニカルである以上プチ・ナショはあくまでプチである、と北田は言っているようにみえるが、そうしてアイロニカルであることができる場が(本書でキモというべき論じかたをされている『元気が出るテレビ』がやっていたような)自分たちで作れる小さな場ではなく、あまりに強大なテレビ空間にのっかっている以上、やっぱり2ちゃんのロマン派的な自己投機は「本気」にならざるをえないのだと思う。2ちゃんがアイロニカルな場であるのは事実でも、そこで作られた言説がその場から離れたら、もうアイロニーもへったくれもなくなっちゃうのじゃないか、と。いやなにを言いたいのかというと、この本は基本的に北田暁大自身について書かれた、つまりアイロニストによってアイロニズムについてアイロニカルに書かれた本で、その位相ではすばらしいが、彼ほど場の雰囲気が読めない人間を読み解くためには機能しないのではないか、ということです。