学会

昨日の会で集めた、会の感想、方向性についてのアンケートを読む。個々の回答についてはもちろんここでは書けないが、院生や専業非常勤といったほんとうの「若手」の参加者が多いし、そうした人たちの期待感、自分たちが参加できる場所であってほしいという願いは感じられる。

日本英文学会は巨大な組織だ。一時より会員が減ったとはいえ、3500人くらいいるはず。会員でない英文学者もたくさんいる。しかしこの規模になると、若い人にとっては運営はほんとうに雲の上。研究発表の制限時間も厳しいし、なんとか質問に答えてそれっきり、質問者とその後会うこともなかったりする。
いっぽうで、もっと関係の密な小規模の場として、いろんな作家別の協会というのがある。こっちは参加者数十人とかだから、だいたいみんな顔見知りになれるし、具体的なアドヴァイスも貰える。ただ作家別協会は、研究テーマを絞ってしまう制度だ。シェイクスピア協会やジョンソン協会はもう少し自由だが、ふつうはディケンズフェローシップ日本支部ディケンズのことだけ、ヴァージニア・ウルフ協会はウルフのことだけやるもので、それはしかたない。他にはみ出していくのは難しいのだ。しかも学会を維持していくのは手間がかかる。いまの「若手の会」のような海とも山ともつかない場なら、勝手な暴走もできるが、規約ができ、組織がきちんと作られれば、しがらみもできる。会はある程度民主的に運営しないといけなくなるし、民主主義は時間を食う。結果、ある作家別協会で認められた人は、中堅の年齢になるとそこの運営がおもな学会活動になり、他に横断するのが難しくなっていく。ある特定の作家しか研究できなくなる、ことになりかねないのだ。しかも英文学会本大会は、一度に十室くらいで同時進行するから、ふつうは自分の専門に近い、あるいは自分の知り合いが出るセッションだけを聞きにいく。たとえば十九世紀イギリス小説研究者とルネサンス研究者は、たいてい別世界に生きていて、ほとんど顔をあわせることもない。巨大さはタコツボを作りだしやすい。

そして日本英文学会は、純粋な研究発表・パネルディスカッションをおこなう組織として発展してきた。zappaさんhttp://d.hatena.ne.jp/zappa/20050429が問題にしているようなリサーチメソッドを教える機能は、各大学でやればよろしい、学会はアウトプットの場である、ということか。それ以前に文学研究は個人の名人芸だという観念があるから、リサーチメソッドという発想自体が弱かったともいえる。でも学問が高度化し、歴史主義が強まるいま、一代芸で論文が書けるのはごくわずかな天才だけだ。協力体制が必要だ、ということです。

それに、英文学者の仕事はリジッドな研究論文を書くことだけではない。英語圏の文化事情の紹介や、新作小説の翻訳、どれも英文学者が期待されて担ってきたことだ。学会はこれまで、そうした仕事はジャーナリズムにまかせて、「研究」のみを扱ってきた。それはそれで一つの見識だったし、学問としてのレベルを高めたと思う。でも、一般読者はもちろん、英文学者自身ですら、学会発表以上に『英語青年』や『ユリイカ』といった雑誌、あるいは翻訳のあとがきや新書を注目して読んできたはずだ。しかしそうした仕事の多くは学会で話題にされることがなかった。輸入学問の宿命として、英米人が書いたものの話はしても、目の前の日本人が書いたものは読まない、あるいは読んでも公に語らない、というねじれた風潮も消えてはいない。英文学業界が巨大でありながら、学会がその中心にあると言い切れないのは、こうした事情のためだ。
けれども翻訳小説の売れ行きは落ちているし、海外事情の情報など、学者が占有するようなものじゃなくなっている。ジャーナリズムに頼れる部分はどんどん減っている。今後は、学会がある程度そうした機能(新刊紹介・新作劇紹介etc)を担わなければ、英文学的文化は壊滅しかねないだろう。「若手の会」が今後どうなっていくかわからないが、なんかの間違いで立ち上げにかかわってしまった身としては、少しは今いったようなことを現実化することを考えないといけないんだろう。なんで俺がここにいるんだろう、という気は少なからずあるけど。