東京ドームで学会レポートについて一考

上天。時間があったので、ドーム周辺をぶらぶらし、ラクーアの二階からウォーターライドが水に突っ込むところを漫然と眺める。ここのデパート屋上的なまったり感、無理して楽しもうとしてない雰囲気はここちよい。ステージでやってるのはなにしろ「ショー・コスギ塾お披露目」の幼稚園児空手とかだからなあ。まったりする以外に反応しようがない。

大塚英文学会@茗荷谷。業界内にも存在を知らない人が多いと思うが、東京教育大が大塚に会った頃からの由緒ある会で、筑波大ができてからは本部を筑波に移して続いている。とはいえ昔からの人はもうあまり出てこなくなり、存在意義が問われるところ。個人的には、余った金で本でも出して散会していいのじゃないかと思っている。さて、『ユリイカ』のブログ作法特集でも話題になっていたが、他人が喋ったことについてウェブで書くときどこまでやっていいかは迷うところだ。フリートークなんかは書いちゃまずいことも多いだろう。学会の「研究発表」ならはっきり発表者の名前を出していい気もするし、英文学業界でもディケンズ・フェローシップ日本支部なんて、ウェブ上で質疑応答まで全部動画で見られる。とはいえ大塚みたいな、ポスターも出してないクローズドな会となるとね……。

というわけで発表者の名前は出さずに書いてみると、まず『オロノーコ』における死体の腐臭とタバコについて一本。次いで、シェリーの"The Sensitive Plant"というオジギソウの詩を、エラズマス・ダーウィンThe Botanic Garden と並べて、生物学史のなかにおいてみる試み。オジギソウは夜は葉を閉じるが、これが睡眠という、動物に似た随意運動であるといっていいのではないか、さらに光合成も呼吸という運動ではないか……。オジギソウ(ミモザ)の詩というのは十八世紀後半にはけっこうあって、たいがい恥らう女性としてこの花を扱うのだが、シェリーの花は雌雄の恋愛をするのではなく、ただ光を前に全世界を「愛し愛をうけとる」。よくわからんが、これって光合成=呼吸が世界へのまったき愛だっていう思想なのか? だとしたら、光合成を一種の随意運動とみなして植物と動物を同一の原理のもとにあるとみなし、それでもって世界を一体化するようなロマン主義言説が、植物学史に見つかるのかもしれない。