「男性同性愛者」の主体化

筑波へ。人文社会科学研究科現代文化・公共政策専攻文化交流論分野博士(学術)学位請求論文予備審査会(ああ長い)、新ヶ江章友「日本における『男性同性愛者』の主体化とその経験――HIV/AIDSとともに生きる時代を背景とした分析」。副査としてコメントする。80年代以降の日本のMSM(男性と性行為を行う男性)がエイズにどう対応してきたか、そして「男性同性愛者」という主体がそのなかでどう立ち上がってきたか、を厚生省ファイルから『薔薇族』の投書欄まで膨大な資料で位置づけた上で、論文の終盤では、そうした「健康な主体」が取り逃がしてしまうような経験の多様性を、聞き取り調査をもとにレポートしている。最後にフィールドワークをやっているので、民族誌とか都市人類学・医療人類学の論文に分類されるのだろうが、カルスタやジェンダー理論も入っているし、きわめてインターディシプリン的なのが、筑波のこのコースっぽいのだろう。
カルスタ系のエイズ言説批判はおもに、コミュニティの側に立って疫学の、客観性を装ったホモフォビアを問う、という対立図式でなされてきたわけだが、この論文はその先を行っている。コミュニティの80年代後半以降のゲイ・アクティヴィズムが、疫学的言説を内面化してきたことはまちがいない。「正しい主体」はつまり正しくセイフ・セックスする主体、正しい知識にのっとって自己をコントロールする主体なのだ。もちろんこれは病気の拡散を抑えるのに大きな功績があったのだけれど、それによって排除されてしまう部分も当然あった。必然的に起こってしまうコミュニティ自身の抑圧効果に批判的な目を向けつつ記述する、というのはしんどい話で、まあ友だちをなくす系の仕事である。新ヶ江さん、お疲れさまでした。日本のゲイ・(アクティヴィスト・)コミュニティはまだ成長途上だから、こうした批判的な視座は早すぎる、という意見も当然出るだろうし、わたし自身もどっちかというとその立場だが、とにかくこうした研究が行われるようになったのだなあ、と思うと感慨深い。今後、批判性はキープした上で、もう一度疫学研究者とのコラボをやるのもいいのかも。「なぜ知識があるのにセイフ・セックスしない奴がいるのか」問題の人類学的研究データは、公衆衛生研究者や施策側が欲しくて欲しくてしょうがないだろうし。
キュート三階のポルトフィーノでワイン。馬鹿話も深刻な話も。