触発する言葉

パフォーマンス・アーティストIさんとロンロン地下の「クレア」で打ち合わせ。3年後にはプロジェクトで本を作る予定だが、DVDつきにできないかなあ、とか。

触発する言葉―言語・権力・行為体

触発する言葉―言語・権力・行為体

ひさしぶりに再読。バトラーのいちばん好きな本である。今回気がついたのは、第三章の末尾部分での、「わたしは同性愛者だ」という言明は、完全に同性愛行為を指示しているのではない、という議論。「行為遂行性と指示性のギャップを閉じないこと」(195)が重要なのであり、欲望を語ることと、語られている欲望は異なる。言語はけっして指示対象と一致しないと論じている点で、とてもバトラー的な箇所だ。
この引用だけ見ると、パフォーマティヴな発話行為と、ただなにかを指示する陳述文との差異を完全になくすべきではない、と言っているようにも一瞬見えるし、実際そうした見かたは、米軍の Don’t ask, don’t tell 政策への素朴な批判になる。I am gay という発言を軍が禁止するとき、軍はこれを直接的に行為遂行的な(たぶん性的誘惑を含む)行為とみなしていて、ただ事実を述べる陳述=言論であるとはみなしていないからだ。ただバトラーは、ほとんどあらゆる発話は行為遂行的だという立場に立っているので、後戻りはできない。ふつうなら、カミングアウトという行為のパフォーマティヴィティは、誘惑のそれとは違う、というような区別をして軍に反論するところだが、バトラーは、の批判はもっと洗練されていて、指示行為という「遂行行為」は完全には遂行されないという議論に横滑りさせている。
このときにこぼれ落ちるものをあっさり「欲望」と言っているのが、なにがしか引っかかるのだが、なにに引っかかっているのか自分でもいまひとつはっきりしない。ここは竹村訳では「もっとよい方法で語れば、欲望がその言説の指示対象になるということではない。一般的に何かを指示している記述にある種の限界を設けているのは、指示対象そのものであり、にもかかわらず指示対象は、指示対象をけっして把捉することがない行為遂行的な連鎖を、限りなく推し進めていく」(194)とあるが、これは悪訳っぽくて、四回出てくる「指示対象」のうち二つ目と三つ目のは、「欲望という指示対象」あるいはたんに「欲望」と訳すほうが明確だと思う。じつは、こうして欲望をいつまでも言語化できない外部のように語ってしまう、おなじみといえばおなじみの語り口をバトラーが使うのを見るのはちょっと落ち着かない。身体と経験性を言語の外部に押しやるような言い方だから。翻訳のぶれもそれが理由かも。