私家版・ユダヤ文化論

意味なく祖師ヶ谷大蔵と経堂をぶらぶら。「英」のソフトクリームを食べて帰る。明日の期末試験用のリスニングMDを作る。会議。

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

内田ファンでなくても読んでよい本。ユダヤ人の定義不能性、日本人ユダヤ人同一論、反ユダヤ主義なきユダヤ人の想定不可能性(このへんはサルトルの持ってきかたがさすが)云々を説明する前半はそうでもないが、後半はテンション高い。第三章は、十九世紀末フランスの反ユダヤ主義者たち、とくにエドゥアール・ドリュモンとモレス侯爵、また世界最初のファシスト武闘組織、モレス盟友団(1891)の活動について細かく追っている。「ファシズムとは、本来まじりあうはずがない階級が出会うことなのである。……ファシストになることによって、貴族はますます貴族的になり、労働者はますます労働者的になるのである」(150)。彼ら反ユダヤ主義者たちは、けっこう人格高潔で正義感に満ちた「いいやつ」だったというのは、さもありなん。
終章は、ユダヤ人が「知性的」であるのはなぜかという問い。内田樹の場合は、要約するより引用してしまったほうが早い。世の中には「『私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している』と考える人間と、『私は遅れてここにやってきたので、〈この場所に受け容れられるもの〉であることをその行動を通じて証明してみせなければならない』と考える人間」(228-29)がいる。いうまでもなく前者が反ユダヤ主義者というか右翼であり、後者がユダヤ人。ユダヤ人は「自分が犯していない罪に有責感をもって生まれる」とレヴィナスはいう。彼らはあらゆる行動に「先んじている」原初の暴力的な父みたいに扱われることがあるが、同時に、生まれたときにはすでに罪が先行していて、その責任感のもとで世界に降り立つしかないという意味で、「遅れてきた」存在である。「ユダヤ人はおそらくその民族史のどこかで、この『不条理』を引き受けられるほどの思考の成熟を集団成員へのイニシエーションの条件に課した」(225)。