Heredity

某新設学会第1回理事会@青山。規約とか委員の選出方針とか。わたしは理事ではありませんよ、事務局です。
Theodule Ribot, Heredity: A Psychological Study of Its Phenomena, Laws, Causes, and Consequences (Henry S. King, 1875)。フランス語原著は1872。リボー(1839-1916)は健忘症の研究などで知られるソルボンヌの初代実験心理学教授。ただ自分ではデータをあまり集めない人だったようで、ここでも他人の本のデータを渉猟している。この本は獲得形質は遺伝しうるという立場に立っていて、フランスの新ラマルク派、モレルやマニャンといった「変質学派」の流れに位置づけていいのだろうが、思った以上にスペンサーを始めとしてイギリスの文献が参照されている。彼の最初の本が Contemporary English Psychology (1870)だというのも今回初めて知った。リボーは知性や道徳性を科学的に扱うという野心をもっていた人で、その足がかりにしたのが、イギリスの観念連合系の心理学だった。この本の第三部「原因」では、意識の動きの基礎は、視覚や聴覚による外的世界への反射的反応にある、というヒューム的な発想から始めている。そうした反射を繰り返すことで、記憶が脳に刻み込まれ、やがて知的観念を形成するというわけだ。こうして心理的性質を生理学的に基礎づけようとする作業は、ルース・ハリス『殺人と狂気―世紀末の医学・法・社会』によると、80年代の後の著作でもっと展開されているらしい。
読んでみてよくわかったのは、獲得形質遺伝と進化論との関係。リボーは完全なスペンサー主義者で、宇宙も社会も進化を続けると思っている。しかしそもそも遺伝学と進化論というのは相反するヴェクトルで、前者が絶対なら種の性質は変化しないでずーっと同じまま続くはず。進化論者としてはそれでは困る。しかし獲得形質がある程度遺伝するなら、変化の要素を遺伝学に導入できるわけだ。「遺伝は本質的に保守的な力」だが「しかし進化というものがある以上全ては変わってくる。生物はたえず内的・外的な原因によって変化し続ける」(288)。遺伝学はあまりにも決定論的で、自発性や自由意志を圧殺しかねない。リボーは自発性の余地を確保するためにも、ラマルク的でなければならないのだ。こうして、決定論でありつつ、過度に悲観的な運命論ではない世界観が落としどころといった感じで現れる。
もちろんあらゆる獲得形質が遺伝するわけではない(反対論者の重要な論拠は、ユダヤ人の子どもがいまだに包皮をもって生まれてきて、割礼をしないといけないという事実だ)。怪我をして指が曲がった男の子どもたちがやはり指が曲がって生まれた云々の報告とか、才能の遺伝の例として音楽家の家系をずらずら列挙するやりかたは、現在の目で見るとトンデモに見えてしまう。義理の父の性格が血の繋がらない連れ子に遺伝する、というゾラが『居酒屋』で使っているやつとか。もっともこの最後の例には、リボー自身もきわめて懐疑的だ。もちろんゴルトン『遺伝的天才』も参照されている。意志の強さが遺伝しうる例として、政治家と軍人の家系が列挙されているのはけっこう楽しい。
野生の馬が人間に飼われて数世代たてばおとなしくなる、なんていう例は、獲得形質遺伝説の重要な根拠だ。そして同じように、人類を教育によって向上させることは可能だろう。「野蛮人の精神は未開拓の土地のようなものであり、数世代にわたるたえざる努力によってのみ、矯正が可能だろう」(327)。一世代では無理でも、数世代あれば、後天的性質は「蓄積」し、後は遺伝によって人類の質は高まるだろう。この「矯正には数世代かかる」というのは、ギッシングも Demos で言っていることだ。ただギッシングだと、トーンはあくまで「すぐには変わらない」と悲観的なんだが、もっと楽天的になってもいい。獲得形質遺伝論に立てば、未来は明るい。社会改革案と結びついて、前向きの優生学への道も開かれる(リボーは eugenics という語は使っていないが)。
終盤で、社会が十分に進化したら、生存競争の圧力に頼る必要がなくなって種としての繁殖力が落ち、子どもも少なく死人も少なく、という世界が訪れる、というスペンサーの『生物学原理』の一節が長々と引かれていて、これもちょっと面白い。