イラン 何が誰にとって問題なのか

英文学会大会準備委員会@駒場。今年から出版することにしたプロシーディングズの位置づけなどの論議。理系や英語学だと学会プロシーディングズに載ったものは、引用可能な「論文」(に準ずるもの)と位置づけられるけど、文学にはそういう習慣はなくて、むしろ、あまり長くてきっちりしたものを載せてしまうと、書き直してどこかに論文として出版するときに不都合が生ずる、というような感覚がある。どっちにしろ会員に無料配布するので、あまり大部のものを作る金はなく、したがって一人一人の分量は短めに、で一応スタートすることに。オースティン協会設立準備会の懇親会に誘われるが、そこまでの気力なく帰宅。

板垣雄三の長いインタヴューが読み応えあり。1970年代後半に、五木寛之原作で三越がスポンサーについた東宝映画『燃える秋』(真野響子ペルシャ絨毯に惹かれる)で、イランが日本に近く感じられたときがあった、などという小ネタも。小田切拓のパレスチナ被占領地の雰囲気についてのインタヴューは生々しい。西谷修鵜飼哲対談では、アルジャジーラアムネスティ・インターナショナルに喩えている。アムネスティ支部のある国の批判はしないということで成り立っているし、アルジャジーラカタール政府の批判はしない。まあそういう一宿一飯の恩義がなければ報道も成立しないわけで、そこでもってアルジャジーラを叩いてもしょうがないだろう、と。ハマースについて、本来ポリティクスの外にあるはずのゾーエーの共同体が、政治化せざるをえなくなっているという事態ではないか、という西谷発言も示唆に富む。
鈴木綾子の連載「占領国家イスラエルの日常・非日常」では、世界中からのアーティストが住みつく「芸術村」エイン・ホードが取り上げられている。最後のほうに、アラブ人とユダヤ人の関係についてこうある。「相手のことを友だちと呼ぶのは常にアラブ人ばかりで、ユダヤ人が『アラブ人の友だち』などというのは、左翼活動家と一緒にいるような場合だけだ。ユダヤ人にはアラブ人の友人は必要がないが、アラブ人はユダヤ人の友人を是非とも必要とする。……ともかく生きていくためには、ユダヤ人は友だちでなければならないから」。