笑う大英帝国

朝湯。散歩。湯田温泉は初めてきたが、いかがわしさのまったくない、ひじょうに健全な温泉地だ。山口市街のアーケード街をぶらぶら。地元の百貨店「ちまきや」でお土産など買っていたら、空港までのアクセスが予想以上に悪く、飛行機に乗り遅れそうになる。

「デブ・ヤセ・シリ」の3大モティーフを軸に、イギリスのたちも品も悪い笑いをエリザベス朝から現代まで、次から次へと並べまくる。(富山ゼミでイギリスに旅行した人間は、お土産に『プライヴェート・アイ』を買ってくるよう命令されていると思われる。)十九世紀の『パンチ』、とくにディズレイリの諷刺画を解説したところとかは、さすがの深い学識だが、基本的にはひたすら下品な小ネタ集。富山先生自身、こういう野卑で差別的なジョークの名手だと思うが、自分でそれを岩波新書で開陳するのは慮られるのか、イギリス人に対抗するのは無理と考えたのか、全体に、王室ものその他ろくでもないネタを次々出しては「いったいこれにどんな反応をしていいのやら」と途方にくれてみせる、というかたちで書かれている。
わたし個人は、現副首相ジョン・プレスコットの顔面芸がいちばん好き。それから、スパイク・ミリガンの戦争回想録が大きく紹介されているのがすばらしい。最終章はクェンティン・クリスプ。ただ、ここでのクリスプ像はやや善人調だ。わたしは彼のもっと狷介な、人嫌いの部分が好きなので、少し違和感を覚える。『ピーター・パン』のパロディ性を論じた5章などは、ぎくしゃくした感も。ここ、発想は明らかに引用の網の目とかといったテクスト論なのだが、この本は批評理論的なものを相対化する立場を打ち出しているので、すっきりいってないということか。
数年前に「保守化宣言」をした富山太佳夫だが、この本はその保守化のマニフェストらしからぬマニフェストかと。思うに、「保守派」と「理論派」が文学批評について実際に対立しているとしたら、ひとつのポイントは、「理論派」は作品のなかのある要素を無視して切り捨てることを頓着しない、ということだ。いやもちろん保守派も、ある部分を無視し、ある部分を重視するのだが、そのときたいがい「無視する部分はこの作品では重要でない」といった価値判断をやってみせて言い訳する(あるいは自分でその判断を心から信じている)。理論派というかポストモダニストは、たんに無視する。全体像というものへの信仰がないし、それに自分の作業はあくまで多数ありうる作業のうちの一つにすぎなくて、最終解釈ではない、という前提があるからだ。自分の議論の整合性のほうを重視する、ということもあるだろう。で、イギリス文学・イギリス文化を論じるときに、下品な笑いというのは、もっとも目立つ、まちがいなくそこにある、でも議論になかなかしようがない要素だ。この本が保守的だというのは、「重要だけれど分析しづらい要素を無視するな、それがイギリスなのだ」と恫喝しているということです。