How Novels Think

非常勤1コマ。

How Novels Think: The Limits of Individualism from 1719-1900

How Novels Think: The Limits of Individualism from 1719-1900

ナンシー・アームストロングの Desire and Domestic Fiction: A Political History of the Novel といえば、80年代新歴史主義のイギリス小説論で、たぶん最大の影響力を誇った本だ。リチャードソンやブロンテと、当時の女性作法書の相同性を指摘しつつ、小説を主体形成のカリキュラムを教える装置とみなすこの本は、古典小説論のスタンダードになっている。これも、その後の Fiction in the Age of Photography: The Legacy of British Realism も、一貫した視点での小説史の書き換えとして作られている。今回もそう。タイトル通り、「個人」の形成と、その集合性との関係が、デフォーから『ドラキュラ』にいたるイギリス小説によってどう形成されているか、を辿っている。
ただこの本、読むのがすごく難しい――文体が稠密とかいうレベルの話ではなくて、いったいなにをやっているかを掴むのが、難しい。「個人」という概念があまりに巨大で、茫漠としているのと、われわれ自身がその外に出ていないからだ。古い時代の女性主体を論じるときには、いちおう現代の(女性)読者はそこから距離をとれる。読者をパメラみたいな立派なお嬢さんにしたてようとする小説の教育機能から、とりあえずは自由だ。しかし「個人」となるとそうはいかない。りっぱな(男性)主体のありかた――親切で賢明で暴力をふるわない、とか――は、ヴィクトリア朝と現在でそう違わない。「なぜヴィクトリア朝小説には善人があまりいないのか」というタイトルの第三章は、『嵐が丘』『ドンビー父子』などをとりあげて、女性に暴力を振るう男性キャラは反語として必要だったのであり、そうした存在がいないと逆に「正しい個」が思い描けなかった、と論じているのだが、これ、あまりにわかりきった話という気もする。数年前にヴァンクーヴァーの学会でこのペーパーが読まれたのを聴いたが、聴衆――院生が多かった――のほとんどは、やや呆然として、しばらく質問も出なかったのを思い出す。あまりに一般論すぎて、(たとえ個々の小説が具体的に論じられていても)とらまえどころがないような気がしたものだ。こうして本の一章となると、文学史の捉え直しとしてそれなりに位置づけられるが。
第一章は、デフォーのキャラクターたち、クルーソーやモルのような、社会にいまひとつフィットしていない連中が、新たに社会に組み込まれるプロセスが、十八世紀小説の基本ラインだとみている。これに対して、十九世紀小説は過剰な個と社会との弁証法をかなりの程度失って、個のリビドーは、最初から社会に適応するために自分を抑圧することにむしろ向かう、という図式になるのかもしれない。第二章では、『ウェイヴァリー』と『フランケンシュタイン』をとりあげて、国家あるいは超国家的な共同体に個が入っていけないケースを見ている。たしかにフランケンシュタインの怪物が参入しようとしてはたせない世界は、汎ヨーロッパ的な、カント的永遠平和の世界だ。
わたしの世代の十九世紀小説研究者には、『洞窟の女王』と『ドラキュラ』を論じた第四章が、たぶんいちばん読みやすいと思う。ここでは、ダーウィンその他、人類が同根であり系統進化してきた(だから「野蛮人」は文明人と同じ系列に属している)という説と、そもそも人類は異根であり、野蛮人はまったく別個の生物であるとする説とを検証し、世紀末ゴシックが後者の立場からイギリス人主体を安心させる効果をはたした、という議論を立てている。これが読みやすいのは、こうして「他者」の排除を語るやりかたが、政治的文学研究のスタンダードになってきているからだ。そして現代の(リベラルな)主体が、過去の排除構造を論ずるのは心穏やかにできる作業だ。ただしさっきも書いたように「正しい個人」とか「道徳的主体」といったものの立ち上げを批判的に検証するとなると、話は他人ごとではないし、つかみづらくなってくる。
理論的関心から読む方は、フェミニズムが「家族」の問題をまだ十分に批判しきっていない点を突く最終章だけ読めばいいかもしれない。ヴィクトリア朝小説のフェミニスト批評の多くは、家庭を担う理想の母像、「炉床の天使」像をおもに批判してきたが、そうすることによって妻なり母なりという個別の女に注意を向けてしまい、むしろ家族という単位そのものを批判することを怠ってきた――とアームストロングはここで言ってるような気がする(さっきから曖昧な言い方をしているが、難しくてまだよく消化できてないのです)。
ではそのオルタナティヴは?と聞いても、もちろんすぐに出てくるものではないし、そもそも小説という装置自体が「良い個人」「悪い個人」を表象=生産するという営みと切っても切り離せないので、その向うを考えることは、小説自体の彼岸であるのかもしれない。イントロの末尾はこうなっている。The Novel of course was not made to think beyond the individual, but neither, on the other hand, was it made to reproduce the status quo.