英文学会@中京

日本英文学会大会@中京大。大会準備委員会、退任委員の後任選挙、つつがなし。ただ結果的に関西人脈がいなくなったのは失点かも。
シンポジアム「『大戦間』の文化研究のために」。フロア130人程度か。「モダニズム」という曖昧な概念を解体した上での大戦間論。遠藤不比人は、フロイトの実質的な翻訳者であったアリックス・ストレイチーに注目。子どもを親と分析者に教育されるべきものとしてではなく、過剰でありむしろ親のほうを位置づけてしまう存在として位置づけるメラニー・クラインを、もっと保守的なアンナ・フロイトよりはるかに優位な存在とみなす。川端康雄は、グレイシー・フィールズの唄など聞かせながらオーウェルの民衆文化論。ヘンリー・ミラーの非政治参加をオーウェルがなじっていたという話が面白かった。
中山徹は、ウィンダム・ルイスのヒトラー論や、Action, The Blackshirt など、British Union of Fascism の雑誌を素材に。一次大戦後は生産過剰によって不景気が生まれているのだから、(現代風にいえば)ワークシェアリングをして、余暇を作りだすのが重要だ、という議論をファシズムがたてているのに注目。そのとき機械は、労働者を放逐する(19世紀のチャーティスト・イメージ)のではなく、労働者に豊かな中産階級的余暇(といってもやるのはマラソンとかフットボール)を与えるものとして提示されている。また農村文化がファシスト文脈でしばしば hard と形容されていること、その hardness がルイスの後のヒトラー批判(あいつは十分 hard でない!)にも再三使われている。河野真太郎は、ハイブラウ、ローブラウといった概念の検証。Q・D・リーヴィスの『小説と読者公衆』で、イギリス伝統文化がホンジュラスで保持されているという一節に注目。1930年代には、それ以前の時代のコスモポリタニズムとモダニズムが変質し、むしろイギリスが自分たちの限定されたナショナルな文化を重視しだす、というのはJed Esty, A Shrinking Island: Modernism and National Culture in England の図式だが、そこにホンジュラスを導入すると、アメリカの現代帝国文化とイギリスの十九世紀帝国文化の接点が、文化的ナショナリズムとからんで浮かび上がってくる。
かなり内容的にも複雑で、十分理解できなかったが、とりあえずお腹いっぱいになったという点では企画として成功だったかと。縁遠先生は、原稿があるより質問に答えてアドリブしてるほうが話が滑らかですな。
懇親会@中京。飲みながら関東支部の会議をいちおうやるが、やはりこういうやりかたではあまりまとまらず。かといって素面で別途集まりたいとは思わないが……。栄の居酒屋でYさん他筑波の院生と馬鹿話。