愛と暴力の現代思想

ちょっとした検査の結果を受け取りに荻窪病院へ。二時間半待ち。待合室のお年寄りたちは、なにをするでもなくただただ静かに待っている。病院というのは、なにもしないという規律へ、つまり死へ、人を訓練するものだと思う。検査結果は大きな問題なしでした。非常勤先で特殊講義。

愛と暴力の現代思想

愛と暴力の現代思想

この二人が存在していて書く場があるというだけで、少しは希望が出てくるというものだ、てなことを言うと、「他人に預けて希望とか勝手に言ってんじゃねえよ、ゴラァ」という山の手氏の怒号が聞こえてくるような気もするが。彼らの天才は、あらゆるところに労働があることを骨からわかっているところにある。「家事労働は労働である」はマルクシスト・フェミニズムの第一綱領だが、学校に行くことも、消費も、すべてがどうしようもなくやるしかない労働で、だから必然的に疎外がある。学生とは無賃労働者に他ならず、自分たちの生産の場を教員に搾取されている存在だし、失業という一見反労働の状態だって、その多くは子育てとか勉強とか、他にやらなきゃいけない労働とカップリングなのだ。
なかではとくに二本目、「プーさんとドキュン」が、夢の安売りと消費の怖さを語って怖い。そう、プーとは(ぬいぐるみなので)痛みを感じずにいくらでも身体が破壊される、凄惨な世界なのだが、みんなそれに慣らされてしまう。「文化商品を消費することで、性差とか経済力とか出自とかということから解放されるんではなくて、逆にそうした格差を思い知らされるわけですよ。……消費が労働なんですよ。特に女子は。消費自体は拒否しないしむしろ積極的に受容するんだけども、消費を拒否したらもうあとがないから」(p.28-29)。
最近コンビを組まずにばらばらに書く文章が増えてる二人だが、ここに収録されたものを読むと、別々に書いたものでもドライヴ感は落ちてない。嬉しい。