Camp and the MGM Musical

会議。家を施工した工務店の専務――じつは動物病院建築コンサルタントでもある――と建物の修理と犬の今後について相談。

Incongruous Entertainment: Camp, Cultural Value, And The Mgm Musical

Incongruous Entertainment: Camp, Cultural Value, And The Mgm Musical

キャンプから見たミュージカル論の決定版。かならずしもクィアに限らず、ファンダムや引用の目配せで作られる文化全体をキャンプ的なものと位置づけているのが特徴で、完全に、ボーナス特典つきDVD以降の世界の映画論と言っていい。もちろんいちばんの主役はジュディ・ガーランドだが、影の主役は MGM / UA Home Video かも。MGM黄金期ミュージカルは、メインストリーム向けに作られていながら、長くゲイ・キャンプ映画ファンの牙城となってきた。キャンプは、「オリジナルな」ストレート世界を自分勝手に引用し、作り変える。ミュージカルという不自然な世界は、それ自体が現実世界との距離を作り出すものだし、歌われる歌はしばしばそれ以前の映画や舞台の使いまわし、つまり引用だ。過去の事例を知れば知るほど楽しめるジャンルにはまる人々は、限定版DVDを買い求め、飽くことなくサイド情報を集め続ける。最終章は、インターネットのガーランド・ファンダムの分析にあてられている。
ガーランドがゲイ・イコンになった理由には、夫のヴィンセント・ミネリをはじめとするゲイの友人の多さ、彼女の晩年の実人生の悲惨さとスクリーンでの明るいキャラのぶれ、などがよくあげられる。つまりキャンプは、スクリーンの外の情報を集めて、それをスクリーンに映ったものに投げつけることによって成立するのだ。ビデオの普及以前には、キャリアの長いスターの若い頃の作品は、ごく一部を除いてあまり若い観客の目にはふれなかった。キャンプに使える外的情報が乏しかったのだ。しかしジュディ・ガーランドの場合、LPレコードの時代から、過去作品のサントラ版が出回り、ファンはオタク知識を溜め込むことができたわけで、ゲイ・カルチャーにおける彼女の特権的位置はそこからきた、という指摘には瞠目。ミュージカルというど派手な世界で、内気で凡庸な少女を演ずること自体の二重性にも、すでにクィアなものがある。『若草の頃』で、「伝えられない想い」を朗々と歌い上げる彼女は、いったい内気で地味な少女なのか? 『スター誕生』を初めとするバックステージものは、役柄上の人生とは関係ない歌を切々と歌う歌手を演じるスターを見せることで、すでに自己言及的な二重性、没入と距離感のキャンプな二重性を打ち出している。
とくにクィアな再解釈に興味のない読者にも、アーサー・フリードの助手だったロジャー・イーデンスを初めとした、MGMのスタジオでのゲイ・スタッフの模様がつかめる第1章や、『雨に唄えば』がいかに引用の織物であるかを検証する第4章は、十分面白いはず。後者は、トーキー・ミュージカルへの移行期の映画についても多く触れている。ジーン・ヘイゲンがやっている悪声の労働者階級出のスター、リーナは、ジュディ・ホリデイがイメージされていたというのも面白い。物語では、彼女の吹き替え女優(デビー・レイノルズ)が、自分の声を自分の姿のもとに取り戻してスターになるわけだが、劇中でレイノルズがヘイゲンの台詞を吹き替えているところは実はヘイゲン自身が自分を真似るレイノルズの声を真似ているのだし、レイノルズの唄も吹き替えられている。ミュージカルは、スターの「真正さ」とそのつど距離をとりながら流れてゆく。
sissy dancer とみなされるのを嫌い、労働者階級の男らしいイメージをいつも打ち出そうとしたジーン・ケリーが、それでもクィアな視線を避けられない事態を分析した第4章も、たいへんみごと。ここでも、第2章の『ジーグフェルド・ガール』『ジーグフェルド・フォリーズ』論でも、主役の肉体とともにサイドダンサーの肉体が重視されている。ジュディ・ガーランドがゲイ・イコンなのは、一緒に踊る男たちが、彼女をじっと見ているからでもあるのだ。細かいところでは、『世紀の女王』のオーケストラ指揮者、ザヴィエル・クーガが、キューバ系であることを無視されて、生まれた土地であるスペインの人としてメディアで扱われた、などという小ネタも興味深い。当然この部分では、ラテン系男性の肉体の位置づけも論じられている。