melancholy, ambivalence, rage

The Psychic Life of Power: Theories in Subjection

The Psychic Life of Power: Theories in Subjection

この本の最終章のメランコリー論は、読むたびに眠くなる。だいたいなんとなくわかるような気もするし、わからないような気もするし、同じことをずーっと言ってるような気もするし、そうでない気もする。具体的ななにかが明確に頭にあって語られてるんだろうという気はするが、表面的にはそうでない。似た印象のものをあげると、フーコーの『知の考古学』か。もっともこちらはあれほど、読んで解放的な気分になる本ではないが。
再読して気がついたのが、メランコリーにおける憎悪の取り扱い。フロイトのメランコリー論では、喪われた他者が主体のなかにとりこまれるとき、もともと他者に向いていた憎悪が、主体自らに向けられる。バトラーは、このとりこみが主体の立ち上げそのものであり、それ以前に歴然とした主体と対象の区別はないと強調する。わたしは一月に、それはあまりにナルシシスティックな他者の消去ではないかと聞いてみたが、いちおうバトラー自身の答えはここで出ているわけだ。超自我‐自我の体制そのものがメランコリックである、というところに彼女の斬新さがある。
で、「もともと他者に向いていた憎悪」というのはどういう性質のものなのか。バトラーでは、これは「社会的なもの」がおこなう排除や差別の体制と漠然と重なっている。主体はその体制を内面化することで、予めある種の愛の対象を喪っている(しかしなにを喪っているのか、自分でははっきりわかっていない)。これは、女性同性愛の議論としてはいちおうわかる。レズビアン、あるいは「欲望する女」は、体制から暗黙に排除され、正しい「女」になっていく主体からも排除される。また、男性同性愛を女性的なものの内面化として考えてみても、すんなりつながる。男である超自我が、女的なものを、主体のなかのメランコリックに憎まれ、じつはこっそりと求められる対象の位置においやるのだ。
ただ、このへんフロイトを再読しないといけないのだが、フロイトの「憎悪」には、「父」への、象徴秩序への愛と憎悪は含まれていなかっただろうか。異性愛パラドックス(バトラーのいう「ヘテロセクシュアル・メランコリー」)とは、同一化の対象と愛の対象が一致してはならないことだ。男性同性愛においては「立派な(父的な)男」をとりこみ、それに同一化することが、その立派な男像を性愛の対象としない、という禁止とともに成立する。このとき、バトラーのいう「社会的なもの」は、「男」に対してどういう排除をおこなっていることになるのか。たんに、社会においては男性同性愛は予め排除されており、それが内面化される、というだけでは、ヘテロセクシュアル・メランコリー論の可能性が狭められてしまうと思う。以前ベルサーニについても書いたが、やはり理想自我への愛は、父なるもの=権力そのものへの愛と憎悪を含んでいると言いたい。わたし自身が「権力」が好きだからこんなことを考えるだけかもしれないが。