我らが共通の友

Our Mutual Friend (Penguin Classics)

Our Mutual Friend (Penguin Classics)

必要あって部分的に再読。これは『ヴィレット 下 (ブロンテ全集 6)』と並んで、わたしのもっとも愛するヴィクトリア朝小説だが、いまだに正面から論じることはできていない。長くつきあってきたものを久しぶりに読むと、そういえばここはこう読めたなあ、と思い出すのだが、困ったことにそのアイデアが過去の自分のものなのか、他人の論文で読んだものなのか、判断がつかない。たとえば次のところ。間二郎訳で引くと

風が吹くとロンドンじゅうを舞い狂うあの得体のしらない紙屑が、ここにも、かしこにも、ありとあらゆるところに渦巻いていた。一体どこからやって来て、どこへ行くのだろう。それはすべての灌木に引っかかり、すべての樹間にはためき、飛びながら電線に引っかかり、すべての囲い地を頻繁に訪れ、すべてのポンプから水を飲み、すべての窓格子にうずくまり、すべての草地で身をふるわせ、無数に立ち並ぶ鉄柵の陰に憩いの場を求めるがすぐまた吹き飛ばされてゆく。パリは金のかかる贅沢な都市だが、そこでは何ひとつとして無駄にはされない――人間アリとも言うべき驚くべき存在が穴から這い出してきて、どんな切れ端でも拾って行くのでこういう現象はまったく見られない。あそこでは、吹きまくられるのは埃だけだ。あそこでは、抜け目のない目と、抜け目のない胃とが、東風さえもひっ摑まえて、それから何かを手に入れるのである。(ちくま文庫版、上 p.286)

実際にパリには chiffonier と呼ばれる紙屑拾いが多くいて、ディケンズもイタリア旅行記でそれに触れている、と Michael Cotsell, A Companion to Our Mutual Friend (The Dickens Companions) (Allen & Unwin 1986) にはあるのだが、ここにはそれだけでなくて、一昨日書いた糞尿の有効利用をめぐる議論が影を落としていると思う。当時、乾燥堆肥(グアノ)はフランスからの輸入品だった。『共通の友』を貫くテーマは、あらゆる生けるあるいは死せる有機物の転移と流転であり、そこでは人間の身体も、骸骨標本や堆肥というかたちで流通する。もちろん貨幣や言語といった非有機物もたえず流通し続ける。上の文で、紙屑が「水を飲み」「抜け目のない胃」に捉えられるとき、一見無機的である紙ごみは、植物パルプとしてのみずからの起源を蘇らせて、生の世界に戻ってくる、あるいは有機的世界と無機的世界、物理世界と言語世界の境界を無化している……ってようなこと、誰かがどこかで言ってるでしょうか。

我らが共通の友〈上〉 (ちくま文庫)

我らが共通の友〈上〉 (ちくま文庫)

阿佐ヶ谷へ。銀星舎で陸井三郎 『ハリウッドとマッカーシズム (現代教養文庫)』他、千章堂で『ボブ・ホープ自伝―ギャグとジョークで綴るアメリカ50年史』購入。「とむす」で炒飯、餃子、棒々鶏。こう書くと凡庸きわまりないが、案外そうでもないのです。おいしい。