アッシリア・アート

Leo Bersani and Ulysse Dutoit, The Forms of Violence: Narrative in Assyrian Art and Modern Culture (Schocken 1985)。すみません、初読です。もっと前に読んでおけばよかった。『フロイト的身体―精神分析と美学』の第三章は、この本と、1980年の『オクトーバー』に載った『ソドムの市』論の圧縮+αというべきもので、パゾリーニや古代アッシリアの宮殿レリーフを論ずる部分は、ほぼこの本からの抜粋である。(順番からいえば『フロイト的身体』のフランス語版のほうが先だが。)Caravaggio's Secrets (October Books) も、こちらを読んでおいたほうがはるかにわかりやすい。
アッシリアのアッシュールバニパル統治時代のレリーフ、五四枚の図版がまず嬉しい(『フロイト的身体』では図版は六枚のみ)。戦争やライオン狩りの図像でびっしりと埋め尽くされた画面は、その荒々しい暴力と、ひたすらな反復性でわれわれを圧倒する。ベルサーニデュトワがとくに注目するのは、画面上を横切る縦横斜めの長い線だ。ときには枠線、ときには槍、ときには梯子や山の斜面。これらのすーっと伸びてゆく直線・曲線は、絵の「主題」であるはずの人間やライオンや馬たちだけに集中することを妨げ、われわれの視線はたえず動いてゆくことになる。そしてここがこの二人の共同作業のらしいところなのだが、この一点に集中しないたえざる移動は、欲望そのものの運動、あらかじめ規定された性的目標にとどまることがなく、たえず転移し、フェティッシュや昇華の新たな対象へと動いてゆく運動と同型なのだ。
この頃の二人はまだ書き手としては公式にカムアウトしていないが、欲望の対象の無限定性を強調する姿勢は、当然同性愛的だ。かならず異性を求める(オイディプス・コンプレックス)やかならずペニスを求める(フェティシズム)志向性から、精神分析を解き放とうとする試みは、『フロイト的身体』よりはわかりやすく、端的に表現されている。
いちばん難解なのは、この本全体が「物語批判」であり、同時にミメーシス=リアリズム批判でもあること。ゴンブリッチなどの図式では、リアリズムの細部描写は、物語内容と無関係な余剰としての力をもつ、とされることがある。バルトの「現実効果」論とか、シクロフスキーの異化効果論とかも、似たような路線だ。しかしベルサーニデュトワでは、その二つはほぼ一体であり、どちらもある特定の主題のみを強調して、他を背景ないし二次的転移とみなすところで同罪となる。物語性は、たとえばサドにおける射精のように、ある特定のクライマックスをめざす。アッシリアレリーフでは、王の力を讃えることが、個々の場面の「物語的暴力」のめざすところだ。遠近法リアリズム絵画における主題も、やはりある特定のもののみを浮き立たせてしまう。アッシリアの宮廷レリーフのたえざる反復と、どこまでも伸びていくかにみえる線は、そうした限定性からわれわれを解放してくれるのだ。
ここでわからなくなってくるのは、ミメーシス批判に、ミメティックな欲望の批判が含まれているのか、ということ。サディストはマゾヒストに同一化しているからこそ快楽を感じる、というフロイトの議論を、ベルサーニたちはたびたび使っているが、このミメーシス的欲望のメカニズムというのも、ここで批判されている物語的・遠近法的なるものの一部なのか、いやたぶんそうなんだろうけど、なんだかすっきりしないな……。
アッシリアレリーフを、リーフェンシュタール『意思の勝利』と並べているのも面白いが、そこはあまり展開されてなかった。