Undoing Gender

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どこを読んでいてどこを読んでいなかったのかよくわからないが、初めて通読した。直接的に個々の政治課題をめぐって論じたものが多いので、わかりやすい、たぶん。たぶん、というのは、こちらが長いことバトラーと付き合って、彼女のレトリックに慣れすぎてしまっているので、じつはよく判断できないからだ。
"Beside Oneself" と題された第一章と、ジェシカ・ベンジャミンを論じた六章は、他者との関係において自己が必ず直面するヴァルネラビリティをめぐっている。ベルサーニ的主題、といってもいい。とてもバトラーらしいのは、ここで自己が承認を求める「他者」が、親とか恋人といった生身の他者だけではなく(それらも含まれるのだが)、同時に社会的・制度的な言説でもあるという語り口だ。同性愛者は、言説規範に承認され、現実に存在していることを認識されるのを望む。しかし承認は必ずどこかに排除を含むのだし、その意味で暴力的であるしかない。ベンジャミン、読まないといけないか。
規範からの承認を願いつつ、しかしその規範に対する外部性を維持したい、という志向は、ゲイ結婚を扱った五章でもよくわかる。フランスでPACS(市民契約)に反対するアガシンスキーの議論――異性間に子どもが生まれることが文化の基礎だ――に反論するこの章は、同性婚の法的承認にひとまず賛成しつつ、しかしそこで手つかずにされている前提――家族とは二者の婚姻と子どもからなる――こそを問題視している。同性婚の承認は、前進ではあるけれど、夫婦と子どもからなる家族モデルは揺らいでいないわけだ。ヘテロセクシズムとは男女間の関係というより親子関係である、というのは『アンティゴネー』論以来の最重要テーマ。
四章は、トランスセクシャル手術に際して、性同一性障害という医者の診断が必要かどうかを扱っているが、ここも原理原則論だけに流れず、ごく現実的な視点を失ってないところがいい。医師の診断に自分の未来が委ねられるのは気分のいいものではないが、性同一性障害と診断されれば、金のない人でも保険で性転換手術がうけられる。そこは押さえておかないといけない。だからこの問題は、もしかすると整形手術をめぐる保険会社との政治闘争というかたちをとるのかもしれない(バトラーの友人のブッチ・レズビアンは、乳癌にかかり、再発の危険もあるし、べつに胸いらないし、というので両方の乳房をとろうとしたが、保険は実際に発癌している胸一つ分しかおりなかったそうだ)。
読み物としては第三章が興味深い。ペニスを損傷したため幼いころに性転換手術をうけ、「ブレンダ」になったが、やがて女の子であることに落ち着かず、男に戻った「デイヴィッド」という人物をめぐった議論。この事例はしばしば、生物学的男として生まれた人は、本質的に男性性をもっていて、それは手術や教育ではどうにもならない、という本質主義的議論に援用されるのだが、バトラーは、そもそもペニスがあるかないかで性別を決定する規範のありかたを問題にしている。デイヴィッド本人――この後自殺してしまったそうだが――の語りを引用するときの注意深さも印象的。彼の語りへの言及が、自分ないしはインタヴュアーの恣意によって歪められるしかないことを、くりかえし念を押している。
長年のバトラー読者には、自分の哲学遍歴を語った最終章と、ロージ・ブライドッティの本に応答した九章の後半が、わりにカジュアルに私的なことを語っていて、面白く読めると思う。いまでも日曜はよくベンヤミンショーレムを読むとか。「わたしはあまりよい唯物論者ではない。身体について書こうとすると、いつも最後は言語のことになってしまう」(p.198) には笑った。