ミニー身長157cm

義父母と義弟一家が遊びにくる。ラベッファーナでランチ。三歳と五ヶ月の二人の姪を連れて店に入り、気疲れする。ここのピザはまずまずうまいが、今日は食後のコーヒーが出てくるのが異常に遅い。明らかに子連れの客を後回しにしてるのだが、それ自体が差別だこの店クズだ死ね死ね死ねと言い切れるかというと、子持たず夫婦としては微妙なところ。ふだんは、子ども連れてレストランになんかくるな、という立場だったりするわけで。小さな子連れを排除しないがサービスで差別する、というのは、自分が経営側だったらまさにやりそうなことだからだ。その後井の頭公園をぞろぞろ散歩。Every(ヴァイオリンとチェロとクラリネットのイケメンカルテット)、風船芸。子ども連れだと、公園で大道芸を見ているのにものすごくほっとする。子どもが騒いでも気にしなくていいし。休日の井の頭公園が混むわけだよ。その後入れ替わりで妻の叔母が泊まりにくる。三人で風神亭で食事。犬の飼い方の相談とか。
友人の友人のブログで、わたしの仕事に近いある文章について「アカデミズムに自閉」していて「アクチュアルな理論を解放する」方向を台無しにしている、という一節を見つける。この文自体はあくまで、もっとアクチュアルに見える翻訳書の解説に、それをアカデミズムに収奪するような文が置かれていることへの違和感を述べたものだし、そうした収奪自体が不可避かもしれないとも指摘しているので、絡むのは見当外れかもしれない。そもそも批判されてる文章を読んでないし。とはいえこちらもアカデミズムに自閉していて、なおかつアクチュアルに政治的なものにつながる内容を書くこともあるので、刺は刺さる。わたしに言えるのは、学者なんてその程度のものなんだから、「アクチュアルな解放」は、それぞれ勝手にやるしかないんじゃないの、ということだ。学者がやるのは調べることと考えることで、その結果出てきたものが実践的に開け、使えると思ったら使えばいいし、使えなければ無視すればいい。俺(たち)にそこまで期待されても困る、という感じか。言い方は悪いが、他人にそこまで期待するのは、要するに美学的判断、あるいは「こいつは仲間かそうじゃないか」の判断でしかないじゃないか、と言いたくなる。わたしは、思想がアクチュアルになるとしたら、それが概念操作の道具としてであって、扇動の空気作りとしてではないことを願っている(それ自身が非現実的で、人文学の危機的状況のなかでプロモーションとして間違っていると言われると辛いところだが)。たかが学者が「アクチュアルでない」というのは、自分の扇動の仲間として数えられる人間がそこにいないことに対する失望の表れでしかないんじゃないか、と。