このアタッキングプレーだ!

文学理論、死の欲動。伝わってるのかどうか定かでない。動物文学ゼミ、Dr Moreau 続き。ゼミ、斉藤綾子高倉健の曖昧な肉体」。Sさんが『網走番外地・望郷編』の人斬りジョー(杉浦直樹)の登場シーンを見せる。「かーらーすー、なぜ泣くのー」と口笛を吹くやつだ。うける。卒論ゼミ、Mさんの『時計仕掛けのオレンジ』。卒論本題目に印鑑をつきまくる。

サッカーの詩学と政治学

サッカーの詩学と政治学

御恵贈ありがとうございます。届いてすぐ読んで、すぐ『ベッカムに恋して』で卒論を書くUさんに貸してしまったので、いま頃書きます。「パキ」としばしば蔑称される南インド人が、イングランドのサッカーでどのように排除されているかを説く有元健の序論がまず勉強になる。有元によるオサス・オバイウワナのアフリカ・サッカー論の訳者解題にも虚をつかれる。有元がロンドン大学ゴールドスミス・カレッジでオーガナイズしたシンポで、オバイウワナはアフリカ・ネイションズ・カップのダイジェスト版を延々見せ、時間を超過して延々喋った。主催者側の有元は、最初焦り、怒りを覚え、しかしやがて、なぜいままでイギリスではアフリカ・サッカーの情報がかくも少なかったのか、このようなシンポの時間の踏み外しがなくては、それに気づくことさえなかったのではなかろうか、と思うにいたったのだという。わたしだったらそこまで思い至らずにスピーカーを遮ってやめさせてしまいかねないな……。田中東子の女子サッカー論は、Uさん、再読三読してください。
小笠原論文は、感動的に困難で野心的な試み。グラスゴーセルティックのサポーターが信奉する「アタッキング・プレー」が、いったいどのようなプレーなのか、にとどまらず、それが伝統的なプレーを超えて創造的に新たなスタイルを生み出し、なおかつそれが「セルティックらしいプレー」と言われるといった事態をどう記述するか、という問題を自分に課している。スポーツ批評は、(後藤健生的な?)社会学的記述と、(草野進的な?)美学的記述とのあいだで揺れ動くわけだが、「俺らのクラブにふさわしい美しいプレーだった」というサポーターの賞賛は、まさにその両者が奇跡的に一致するところで生まれるものだ。それまで見たこともないプレーが、なおかついかにもセルティック的な(ブラジル的な、オランダ的な、バルセロナ的な……)ものとして認定されるとき、いったいなにが起こっているのだろうか。この困難な問いを正面から問うたこの作業は、それ自体がロッベンのドリブルのように美しい。
FC東京のサッカーというのは、いまの時点ではイコール原のサッカーなわけだが、いずれどうなるのか。今年は原の首だって危ないし。監督が代わったときにも、石川がいなくなったときにも、いや、速攻ベースのサッカーでなくなったときも(梶山と馬場が完全に仕切るようになったら、監督によっては十分ありえる話だ)観ていてFC東京だと思えるサッカーがそこにあるのだろうか。