このアタッキングプレーだ!
文学理論、死の欲動。伝わってるのかどうか定かでない。動物文学ゼミ、Dr Moreau 続き。ゼミ、斉藤綾子「高倉健の曖昧な肉体」。Sさんが『網走番外地・望郷編』の人斬りジョー(杉浦直樹)の登場シーンを見せる。「かーらーすー、なぜ泣くのー」と口笛を吹くやつだ。うける。卒論ゼミ、Mさんの『時計仕掛けのオレンジ』。卒論本題目に印鑑をつきまくる。
- 作者: 有元健,小笠原博毅
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 2005/10/01
- メディア: 単行本
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小笠原論文は、感動的に困難で野心的な試み。グラスゴー・セルティックのサポーターが信奉する「アタッキング・プレー」が、いったいどのようなプレーなのか、にとどまらず、それが伝統的なプレーを超えて創造的に新たなスタイルを生み出し、なおかつそれが「セルティックらしいプレー」と言われるといった事態をどう記述するか、という問題を自分に課している。スポーツ批評は、(後藤健生的な?)社会学的記述と、(草野進的な?)美学的記述とのあいだで揺れ動くわけだが、「俺らのクラブにふさわしい美しいプレーだった」というサポーターの賞賛は、まさにその両者が奇跡的に一致するところで生まれるものだ。それまで見たこともないプレーが、なおかついかにもセルティック的な(ブラジル的な、オランダ的な、バルセロナ的な……)ものとして認定されるとき、いったいなにが起こっているのだろうか。この困難な問いを正面から問うたこの作業は、それ自体がロッベンのドリブルのように美しい。
FC東京のサッカーというのは、いまの時点ではイコール原のサッカーなわけだが、いずれどうなるのか。今年は原の首だって危ないし。監督が代わったときにも、石川がいなくなったときにも、いや、速攻ベースのサッカーでなくなったときも(梶山と馬場が完全に仕切るようになったら、監督によっては十分ありえる話だ)観ていてFC東京だと思えるサッカーがそこにあるのだろうか。