高倉健の曖昧な肉体

エアコン工事その他。言い返せる立場にいない相手にだけ高圧的な態度をとる人間を目の当たりにして、むかつく。翻訳一区切り。
四方田犬彦斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画 ホモソーシャルな欲望』(平凡社、2004)。「セジウィックが前提とする英米社会は、極端なほどにホモフォビックな感情が浸透しているので、ホモソーシャルな関係における隠された性的欲望の存在を水面上に出すことによって、男性中心社会に揺さぶりをかけることが可能になる。……ところが同じくホモソーシャルな社会である日本においては、男同士の絆にホモエロティックな影がちらつくことに対して、それを自明のように受け止める傾向がある。男性同士の社会的絆に隠された欲望の存在を露にしたとしても、異性愛男性の間に、英米のようなホモセクシュアル・パニックをもたらすなどということは考えられそうにない。それで、日本におけるホモソーシャル理論は、ホモソーシャルホモセクシュアルの連続性よりも、その違いに焦点があてられる傾向がある」(pp.151-152)という岩見寿子のまとめが、全体のトーンをよくしめしている。同じことが、むしろ日本以上に韓国に言えることは、最後の金素榮論文を読めばわかる。
『人生劇場』から『日本侠客伝』をへて『昭和残侠伝』へと、どんどんホモエロティシズムが濃くなっていくという斉藤の指摘は、後期の授業で使わせていただきたい。四方田の日活アクション論は、ホモソーシャリティから(ときには中国人を演じることで)つねに排除される藤村有弘に注目しているところがミソ。晏妮の『覇王別姫』論も充実したもの。明治学院、元気だなあ。