クッツェー、フィクションの共同体

 http://www.lac.c.u-tokyo.ac.jp/laccolloque.htmlの第2セッションに行ってくる。今年は後期の授業で『恥辱』を読む予定だからだ。いや、本来は児童文学の授業で、中心は『ドリトル先生』なんですけどね。純真な子たちにむりやりクッツェーを読ませて総スカンをくらい、授業崩壊する可能性は高し。パネルでは、現実の南アフリカ史と作品内年代との対応とか、勉強になる。もうちょっと痛い、身体的な暴力の話が聞きたかったかな。

 田尻芳樹さんは、帝国−物語の枠の破れ目として、動物とか赤ん坊とかの話を出していた。ベネディクト・アンダーソンが引かれて、国民国家的な均質の時間と、もっとメシア的な時間とが対置される図式なのだが、この種の話でいつも気になるのは、『想像の共同体』で語られる「均質の時間」と、暴力とか戦争といったものの絡みかただ。国民国家の時間のなかで、戦争はどんなかたちで流れているのだろう?