進化論と社会

1年ゼミ、『サリヴァンの旅』。ジャンルの混交性とか。文学理論、規律と監禁。フーコーは、ペストとハンセン氏病を扱って、規律的社会と監禁的=排除的社会を対比しているのだが、この話をすると学生は、「同化を求める規律社会というのはよい社会で、排除の論理で進むのは差別的で悪い社会」みたいな受け取り方をする場合が多い。いやそういうことではなくて、規律にも暗いところがあって、と一応説明するが、たしかにネオリベ的現在においては、規律訓練のほうが、問答無用の排除よりはましな気がしてくるのも事実なのだ。会議、会議。

変異するダーウィニズム―進化論と社会

変異するダーウィニズム―進化論と社会

ひじょうに分厚く、充実した論集からいくつか。小林博行は、1893〜95年のスペンサーとアウグスト・ヴァイスマンの論争検証。ヴァイスマンは獲得形質遺伝を否定したが、スペンサーがそれを嫌ったのはひとつには、それでは社会組織の進歩が生物としての人間をも高めるという考えが否定されるからだった。バルフォアも、ヴァイスマンの考えが正しければ社会の進歩については悲観的にならざるをえない、と言っている。スペンサーが、生物学の「社会的責任」を強調したのに対して、ヴァイスマンは専門家として科学の独立を唱えている。現代の目で見れば、スペンサーはイデオロギー的に科学をねじ曲げていることになるか。生殖細胞の不死性をスペンサーが「あらゆる進化は個体の死を必然とする」という観点から否定したのは初めて知った。
白鳥義彦は、エスピナス『動物社会』(1877)の分析。「組織とは社会生活の外的な枠組にすぎない」という文が引用されている。有機体として社会を捉える視点では、政治体制などは二次的であり、という発想が、社会学という学問分野の出発点にあったということ。武田時昌は、加藤弘之『人権新説』(1882)の進化論紹介について。この時期的な早さにちょっと驚く。大東祥孝は、ジョン・ヒューリングズ・ジャクソン『神経システムの進化と解体』(1884)を、モレルやジャネといった同時代のフランスの精神医学と並べて論じている。たぶん枚数が足りてないのと、著者の問題意識がじつはかならずしも進化論にないので、わかりづらいけれど、情報量多し。