the beautiful don't lack the wound

会議一つ。いせやでお湯割り。Pさん、妻と合流して George's Bar でマティーニビッグアップルでバーボンとはしご。全然自分のこととしてはわかってない中年三人で「萌え」とはなにかを熱く語る。

On Beauty

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ゼイディー・スミス三つ目の小説は、フォースター『ハワーズ・エンド』へのオマージュ。唐突に始まる友情、思いがけない遺産、異なる階級の男女のコンサート会場での出会い(『ハワーズ・エンド』でヘレンがまちがって持ち帰るのはコウモリ傘だが、こちらではウォークマンとゴーグル)、出てきたばかりの魅力的な人物をいきなりぶち殺す、など、フォースター流のテクニックが満載。元ネタの冒頭は "One may as well begin with Helen's letters to her sister" 、こちらは "One may as well begin with Jerome's e-mails to his father" 。
この父親、ハワード・ベルジーは、ハーヴァードをモデルにしたとおぼしき東部の大学でレンブラントを教えるイギリス白人。リベラルな理論派で、本ができればテニュアがとれるはずだが、いつまでも書きあげられない。この五七歳の男の「エンド」へ向けての道行きが、期待通り、愛を含んだサタイアでもって語られるわけだ。ベルジー家は五人家族。妻のキキは黒人。フロリダ生まれで病院勤め、アカデミズムとは無縁な良妻賢母だ。長男のジェロームは自分の道を決めかねている。ゾーラは父の大学で戦闘的な優等生。次男リーヴァイは、ストリートに憧れるタワレコでバイト中の高校生。三十年間幸福に連れ添ってきた夫婦だが、ハワードと同僚の女性詩人との浮気が発覚してから、ぎくしゃくしている。ハワードの学的ライヴァル、モンティ・キップスはトリニダートトバゴ生まれの黒人で、ウルトラ右翼。妻カーリーンは家では影が薄い。こちらも子どもは男二人女一人。娘のヴィクトリアはスーパー・ビューティ。このキップス家が、ハワードと同じ大学に職を得てイギリスからやってくることで、ドラマがゆっくり転がりだす。これに、詩才に溢れたストリート・ラッパー、リーヴァイがバイト先で知り合うハイチ人、などが絡んで、対立するイデオロギーを奉じる二つの家族の物語が展開する。
といっても、リベラルか保守か、という二人の学者の対立は、じつはどちらも揶揄されているので、あんまり緊張感がない。ハワードとキップスは、結局似たもの同士なのだ。フォースターは、「実業的」なウィルコックス家と「芸術的」なシュレーゲル家の対比を、もっとシリアスに扱っていたと思う。そうならないのは、アカデミック・ライフをコミックに描くという志向のほうが強くなってしまってるからだろう。リベラルの価値を会議で唱えるハワードの長広舌は、どれほど政治的に正しくとも、やっぱり滑稽なのだ。著者の共感は、そんな演説とは無縁な二人の妻のほうに向いていて、とりわけキキは、ある種日常的な高貴さを湛えている。その割に影が薄い、という書評をいくつか見たが、コミック小説のなかで、作中人物に気高さを与えるのはどだい難しい。『直筆商の哀しみ』の後半に出てくる元ポルノ女優も、あんまりうまくいってなかった。フォースターも、この難しさがよくわかってたから、その手のキャラはすぐに殺してしまっていたわけだし。
いっぽう、『ハワーズ・エンド』の労働者レナード・バストの役回りを与えられた二人、ラッパーのカールとハイチ人のチューは、ドラマを大きく動かしている。カールとゾーラがプールで出会ったあとの妙に気づまりな会話は、最高。アメリカが現にこうして階級社会である以上、古典小説の語り口は健在なわけだ。あと、ロンドンに帰ったハワードが、久々に父を訪ねるシーンには泣かされた。肉屋の父と、大学教師の息子には、ほとんど交わすことばがない。クイズ番組をつけっぱなしにして続けられる噛みあわない会話、やるせない。