A Single Man

Christopher Isherwood, A Single Man (Eyre Methuen 1964)、恥ずかしながら初読です。主人公ジョージは、LAのカレッジで英文学を教える初老のイギリス人、要するにイシャウッド自身。彼のもとを去って女に走った歳下の恋人は事故で死に、いまは一人暮らし。60年代初頭のLAの郊外の雰囲気――ゲイに「寛容な」隣人の奥様や、多人種的だがどこか均質化された学生たち――が、クールに描かれている。アメリカのモーテルはメキシコと比べるとあまりに人工的で「unreal」だという同僚の妻に向かって、ジョージが、「なにを馬鹿なことを言ってるんだ、アメリカのモーテルは完璧で厳格なシンボルだ、アメリカのほうが進んでいるのに、それをヨーロッパ人は inhuman と呼ぶんだ」とまくしたてるところが印象的。ジョージはここで自分を us、つまりアメリカ人と呼んでいる。とはいえこうしてカリフォルニアの人工性を好むところが、むしろ外国人のアメリカ好きのひとつのパターンというか、世界に対する永遠の異邦人であるイシャウッドにふさわしいわけだが。住処としてオーデンがニューヨークを、イシャウッドがLAを選んだのは、あまりに正しかった。
イシャウッドは、ベルリンとLAを舞台に傑作を残したが、イギリスをうまく書くことはできなかった。イギリスを舞台にした小説では Prater Violet が名作だが、これも中心人物がオーストリア人だし、映画産業という「異世界」を描いてるわけだし。共同体をつねに外部から見ることで、彼のスタンスは成立している。この「カメラ・アイ」目線はつねに自分自身に対しても向かうものであって、この小説の冒頭はその典型だ。Waking up begins with saying am and now. That which has awoken then lies for a while staring up at the ceiling and down into itself until it has recognized I, and therefrom deduced I am, I am now....It knows its name. It is called George.
終盤は、要するに初老のゲイが若いノンケにふられるというだけの話だが、二人で海に入るところの幸福感といい、夜中、この学生の日系のガールフレンドの話を二人でするところの率直さといい、泣かされる。それまでのトーンがあまりの硬質だからこそ、ぐっとくるわけです。
この若い男が、過去と現在を対比する議論をするところも面白い。現在の若者にとって過去はどうでもいい、といいつつ、彼はジョージを Sir と呼ぶ。なぜ、と聞かれて答えは "If you and I are no different, what do we have to give each other? How can we ever be friends?" だ。過去の否定の直後に、このことばがくる。因習のなかにいるのを嫌った、しかしストレートな反抗などいっそう自分のものとは思えなかっただろうイシャウッドが、好きそうな答えだ。小説は、少なくともイギリスの伝統的な小説は、マナー=因習のもとで成り立つ。人間どうしの「差異」が社会において厳然とあることが要請されている、といってもいい。30年代世代の作家たちの課題は、そのマナーが破壊されたときになにができるか、だった。LAへのイシャウッドの冷たい愛は、伝統的な意味での小説の死の意識と不可分なのだと思う。